私が自分史を書こうと思った日――妹に伝えたかった、母との記憶

こんにちは、はじめまして。インタビューを通してその方の人生を文字として綴る自分史作成サービス「私の録(わたしのろく)」を主宰しております、古賀由美子です。
ここでは、自分史にまつわることを中心に、日々のなかで感じたこと、考えたことを綴っていきたいと思います。

第1回目は、私が家族の思い出を書き残そう、自分の思いを伝えようと思ったあの日のことから綴ろうかと。

自分史は、自分だけの記録でありながら、家族や周囲の人とのつながりを深める架け橋でもあるのだと、つくづく思います。
そして、それは「過去を美化するもの」ではなく、ときには苦い記憶と向き合い、あらためて意味づける作業でもあります。
私自身が、自分史をつくりたいと思ったのも、そんな思いからでした。

今日は少し、本音で自分のことを書きます。

私が10歳のとき、5歳と2歳の妹がいました。
末の妹は生まれて間もなく乳児院に預けられていて、私たちと一緒に過ごした当時の記憶はほとんどないようです。母は病に倒れ、長期入院。家族5人で揃った時間は、本当にわずかでした。

ある日、週末の一時退院が許された母と、同じ日に戻ってきた2歳の妹。
家族が茶の間に集まり、苺を囲んだあの光景は、今でも鮮明です。妹は苺を初めて食べたのか、口をアワアワにして、赤い実をべろ~んと吐き出してしまいました。
そうこうしているうちに母は体調が悪くなり、その日のうちに病院へ、妹も乳児院へ戻り、慌ただしい一日が終わりました。

数か月後、小さな仏壇の前で、2歳の妹を膝に乗せる私がいました。母を覚えていない妹が、あまりにもかわいそうで。
「妹に、いつか母のことを伝えなきゃ」――そのとき、そう強く思ったのです。
母は「シューベルトの子守歌」が好きで、洋裁が得意で、料理はちょっと…苦手で。
リカちゃんの小さな服も、膝にチューリップのアップリケを縫うのもお手のものでした。

生前のある日のこと、病院のベッドに横たわった母がこういいました。
「ゆみちゃん、お母さんのお箸を二本同時に折ってごらん」
今思えば、げっそりと痩せこけてしまった母は、その頃はもう普通の食事ができなかったんですね。
母は、いわれるままに箸を折った私にこう続けました。「三本いっしょに折れるかな?」
このとき何故か折ってはいけない気がしたんですよ。箸がしなって折れそうになった直前で、力をゆるめてしまいました。
「三本一緒だと、折れんやろう? だから、何かあったときは姉妹三人、力を合わせてがんばってね」

それが母の、最後のメッセージでした。毛利元就の「三矢の訓」だと知ったのは、ずっとあとになってから。私が自分史を書こうと思ったきっかけは、この記憶を、妹に伝えたかったから。母を知らない彼女に、母が生きていたこと、私たちに遺してくれたものを、ちゃんと残しておきたかったから。

少しセンチメンタル、感傷的になってしまいましたが、母が亡くなってからもうすぐ50年。
母のことを伝えようと思ったその彼女が、「お母さん」と呼ぶのは後に家に入った継母です。実の母のことは、「〇〇さん」と名前で呼びます。
正直、その呼び方には少し戸惑いはありますが、彼女にとって、いつもそばにいて“母”として育ててくれたのは、紛れもなく継母なのだから、当然といえば当然ですね。

きっと、実母もそうした彼女の姿を安心して見守り続けていると思いますし、継母にも深く感謝していると、私は信じています。

あなたにとって、「残しておきたい思い出」はありますか?

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